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第5回日本プロゴルフ殿堂入り式典

今年殿堂入りした6名を迎えての記念撮影


日本のプロゴルフ界に貢献された方々を称えるために、日本プロゴルフ協会、日本ゴルフツアー機構、日本女子プロゴルフ協会のプロゴルフ3団体により設立された「日本プロゴルフ殿堂」の顕彰式典が24日(金)に、ゴルフフェアのイベントとして開催された。レジェンド部門からは陳清水、河野高明、清元登子が受賞。プレーヤー部門では、島田幸作、村上隆、涂阿玉の計6名が選出された。

 

プロゴルフ3団体が設立した日本プロゴルフ殿堂は、今年で5回目の開催を迎えた。1972年以降で功績を残している名士のメンバーは、すでに20名が殿堂入りを果たしている。今年は6名の殿堂入りを見届けようと、会場には大勢のゴルフファンで溢れ、この喜びの日を迎えることができた。

 

1920年に福井覚治プロが日本で第1号のプロとして誕生し、2020年には、東京オリンピックの開催とあわせ、日本のプロゴルファーの生誕100周年を祝うことになる。歴史と伝統を重ねてきたスポーツ「ゴルフ」には、夢と感動を与えることができる。殿堂顕彰が、アマチュアにとっても、プロにとっても、全てのゴルファーの憧れとして継承されていくだろう。

 

【レジェンド部門】
陳清水(ちん・せいすい)
1910(明治43)年1月25日~1994(平成6)年1月8日

 

「日本のゴルフ界で活躍させいただくんだよ」と、子供たちの前で話すのが口癖だったという陳清水。列席したご令嬢の神原美和様は、父・清水氏を想い、「この殿堂入りという名誉を、父はにこにこ頭を下げて、感動していると思います」と、感動を伝えてくれた。

 

【主な戦績】
日本プロ2勝(1942、53年)、日本オープン1勝(1937年)、関東プロ3勝(1934、35、56年)

 

台湾出身。台湾のプロゴルファーの草分け。淡水GCでキャディーを経てプロとなる。1927(昭和2)年、野村駿吉(後の日本ゴルフ協会副会長)らに才能を認められて程ヶ谷CC(神奈川県)で修業するため来日。浅見緑蔵の下で7カ月ほど学んだ。その後再来日して日本に定住。トッププロへと成長する。

 

1935年には安田幸吉、宮本留吉らとともに米国遠征メンバーに選ばれ、全米オープンにも出場した。同年末には戸田藤一郎と再渡米し、翌年にかけて各地でトーナメントに参戦。1936年4月には戸田とともにマスターズにアジアの選手として初めての出場を果たし、20位に入っている。

 

1937年に日本オープン優勝、日本プロは2度(1942、53年)制覇するなどの実績を残したほか、陳清波ら来日した台湾出身の後進の育成にも尽力した。1973年、日本に帰化。

 

【レジェンド部門】
河野高明(こうの・たかあき)
1940(昭和15)年1月4日~2010(平成22)年4月22日

 

弟の河野光隆氏は、兄の殿堂入りについて喜びのコメントを伝えた。

 

「兄の殿堂入り、うれしく思っています。生きて受けられればもっとよかった。兄とは若いころ、2人で毎日朝から夕方まで程ヶ谷CCでよく練習した思い出があります。ゴルフはうまかった。とても気持ちが強い人間で、弟としては少し怖い面もありました。言葉遣いもいろいろ気を付け、いつも一歩引いて話していました。

 

私が先に優勝した(65、66年日本プロ連覇)時には『お前が勝てるならおれも勝てる』とよく周りに話していたと聞きます。私より先に程ヶ谷をやめて、それから練習量が減ってしまったようです。プロゴルファーはゴルフ場を大事にしないといけないことを教えられたと感じています」

 

【主な戦績】
◇国内16勝※1973年以降は賞金ランキング加算競技が対象
日本オープン1勝(1968年)、日本シリーズ2勝(1967、68年)、関東オープン1勝(1967年)など
◇海外4勝
ブラジルオープン1勝(1967年)、マレーシアオープン2勝(1969、71年)、シンガポールオープン1勝(1972年)
◇代表歴
ワールドカップ(1968~72年)

 

神奈川県出身。中学卒業後、父親が勤務していた程ヶ谷CCに入り、19歳でプロとなった。実弟の光隆が日本プロを連覇(1965、66年)して先に大きく羽ばたき、その陰に隠れた存在だったが1967(昭和42)年の関東オープンで初優勝を飾ったのを機に急成長する。同年は日本シリーズも制し、翌1968年には日本オープンと日本シリーズで優勝。日本を代表する存在となった。

 

海外での活躍も目覚ましかった。1969年にはマスターズに初出場。当時のアジア勢最高位となる13位に食い込んだ。翌1970年もマスターズで活躍。12位となって自らの記録を塗り替える。160cmの小さな体で奮闘する姿から、「リトルコーノ」と呼ばれて多くの観客から愛された。ワールドカップの日本代表には1968年から5年連続で選出され、1969年に団体2位、1972年には団体、個人ともに2位の好成績を収めている。

 

1970年には5勝を挙げて、史上初めての”1000万円プレーヤー”となる。同時代に活躍した杉本英世、安田春雄とともに「和製ビッグ3」と称され、プロゴルフ人気を高めることにも大きく貢献した。

 

【男子プレーヤー部門】
村上隆(むらかみ・たかし)
1944(昭和19)年5月25日生まれ、72歳

 

村上隆プロは、当日列席はできなかったものの、顕彰の喜びを以下のコメントとして伝えた。

 

「この度は、大変名誉なことでうれしく思っています。私にとって、年間グランドスラムを達成した1975年がもっとも印象深い年でした。日本マッチプレー(戸塚)、日本オープン(春日井)、日本プロ(倉敷)を勝って、最後の日本シリーズを迎えるにあたり、新聞記者から年間グランドスラムがかかっていることを聞いたので、プレッシャーを感じて大会を迎えた記憶があります。

 

当時日本シリーズは、前半2日間が大阪会場(大阪よみうり)、そして後半2日間は東京会場(東京よみうり)で行われていました。大阪会場(大阪よみうり)はショットの正確性が求められることから特にプレッシャーを感じたのを覚えています。東京会場(東京よみうり)は10年間所属したコースでもあり、回り慣れたコースだったので、優勝に対すプレッシャーはあったもののそれほどではありませんでした。

 

年間グランドスラムを達成するまでは、優勝に届かず2位になることが多く「万年2位」などとささやかれたこともありました。日本マッチプレーに勝てたことが自信となり、その後の優勝につながったのだと思います。日本オープンを最終日66で逆転優勝出来たこともその表れだと思います。殿堂入りの栄誉をいただき、ありがとうございました」

 

【主な戦績】
◇国内21勝※1973年以降は賞金ランキング加算競技が対象
日本プロ1勝(1975年)、日本オープン1勝(1975年)、日本シリーズ1勝(1975年)、日本プロマッチプレー1勝(1975年)、関東プロ1勝(1976年)など
◇海外1勝
マレーシアオープン1勝(1972年)
◇代表歴
ワールドカップ(1972、75、76年)

 

静岡県出身。伊東市で生まれ育ち、中学時代は近所のゴルフ場でキャディーのアルバイトをしていた。中学卒業後に川奈ホテルGCに入り、キャディーをしながらプロを目指す。その後、東京よみうりCCに移り、1963(昭和38)年のプロテストで合格した。

 

1967年のグランドモナークで初勝利を挙げて以降、着実に勝ち星を伸ばしていく。そして1975年、まず5月にこの年に創設された日本プロマッチプレーで優勝する。これが初めての日本タイトルだった。9月には日本オープンに勝ち、10月にはプレーオフの末に日本プロ優勝、11月には日本シリーズをも制して空前絶後の同一年日本タイトル4冠を成し遂げ、初の賞金王も獲得した。長打力はないが、持ち味のパッティング、アプローチを最大限に生かした堅実なゴルフで打ち立てた金字塔だった。

 

海外でも度々好成績を収め、1977年のハワイアンオープンでは米ツアーの当時日本選手最高成績となる2位に食い込んでいる。

 

◆輝かしい功績を伝えている、第5回日本プロゴルフ殿堂顕彰式の模様はオフィシャルホームページでご覧ください こちら>>